プロフィール

10代の頃から私は友達の前では天真爛漫に振る舞っていました。
時には、自虐的はことを言ってその場を笑いの空気にしたり。
でも本当の私は…。
友達には言えない秘密を抱えていて…。
「心は泣いていました」
母子家庭で育ち、統合失調症という心の病を患った母との生活。そして介護問題。
家庭内トラウマを克服して自分軸を固め、母を受け入れ理解した
そんな私の体験記となります。

目次

幼少期~小学生

眉毛を八の字にした悲しそうな顔の子
水商売の母のもとひとりっ子で生まれ育つ

私は、水商売で小さなスナック店を営む母と会社員の父のもと、東京の渋谷で生まれひとりっ子で育ちました。
飲食店や飲み屋さんが立ち並ぶ一角に母のお店があり、お店の2階に家族3人で住んでいましたが、父の記憶は薄いです。近所にも飲食店を営む似たような環境の子供たちがいたこと。お店の前の路地で遊んでいたこと。私より小さい子を叩いて泣かしては知らんぷりしていたこと。母を怒らせたのでしょう。お店の外でホースからの水を頭からかけられたこと。足にはつねられたような跡の青あざがあったこと。真っ暗な部屋の中で私を寝かしつけるために母が子守歌を歌ってくれていたこと。ところどころの切り抜きの映像を覚えています。
眉毛を八の字にして悲しそうなこまったような顔で写っている私の写真。3歳くらいでしょうか。小さな白黒写真がかつて、ありました。なんでこんなお顔にしてるの?その小さな写真がとても印象に残っているのでしょう。今も脳裏に思い浮かびます。
「なんで悲しいお顔をするのかな?」
幼稚園の卒園のときに先生からそんな感じの言葉が書かれた手作りのカードをもらったことがあります。
私の記憶の中にある小さい頃の写真は、笑顔の写真もあったけど、周囲の大人からは「いつも眉毛を八の字にした顔の子」に見えていたのかもしれません。引っ込み思案でおとなしい子でした。

4歳の頃、両親が離婚
母のお店と自宅を行ったり来たりの2重の生活環境が始まる

母子家庭で母と二人の生活でした。離婚がきっかけだったのか、母がお店を移転して東京の別の地域へ移り住みました。寝泊りができるようにお店の2階部分を仮の住まいとして使い、近所に借りたアパートで日中を過ごし、夕方になると母と一緒にお店へ行く。
夜、母の仕事中は仮の住まいとして使っていたお店の2階で、一人で過ごしていました。
ひとりっ子だったからテレビのチャンネル争いなどなく見たいテレビ番組を見てました。独り言を言いながら空想ごっこをしたり、リカちゃん人形で遊んだり。絵本や童話の本を読んでその世界にひたるのも好きな子供でした。そして寝る。ぐっすり寝ているところ仕事が終わった母に起こされ、夜中母と二人で歩いて「自宅」のアパートへ帰ります。
「自宅」とする住まいは小学校の4年生までに、3回移り変わりました。
時が経つにつれ、あるいはその時々で生活の場としてお店の2階での寝泊りが多かった時期もあります。お店が休日の日曜日の夜は自宅で過ごします。母に伴い「お店」と「自宅」を行ったり来たりの生活環境でした。幼稚園から小学校、そんな生活が中学2年生まで続きました。

激しい口ゲンカのうえ母の首を絞める父の記憶「緊張感」
心に残る「喜び」のあとの「悲しい」気持ち

母と父は私が4歳のときに離婚しましたが、子供がいたことで歩み寄る努力はしたようです。父がときどき家に来ていた記憶があります。記憶の中の父は、口数の少ない穏やかな人でした。父に叱られた記憶はないです。父が家に来てくれると嬉しくて、嬉しくて。私の心の中は喜びで満たされました。でもその喜びは長続きしません。何かしらのきっかけで、気性の激しい母は荒々しい口調で父に噛みついて、二人は激しい口ゲンカとなるのです。夫婦の間に何があったのか、よくわかりません。ある日、父が布団に母を押し倒して口うるさい母の首を絞めるまねごとをしたことがありました。カッとなって本気だったのか…。大事には至りませんでしたが、その光景を目の当たりにした子供の私はものすごくドキドキして、でも泣くこともできずに黙ってその様子を見ていました。普段は、穏やかな父の行動が怖かったです。二人がケンカをするたびに父は、どこかへ帰っていきます。私の心の中に「喜び」のあとは「悲しい」がやってくる。母の首を絞める父の姿をみても、それでも私は「今度はいつ来てくれるんだろう」と思い、父が帰ると寂しかったです。私たちと父の縁がぷつんと切れたのは、小学校2年生のとき。父の再婚でした。

酔っ払いとケンカをするお母さん~「緊張と恐怖」
「お母さんが可哀そう」と感じた出来事

小学校1年生のとき、酔っ払いの男性二人が笑いながら母の腕をそれぞれ掴み、母がこわい顔をして大声でお店の外でケンカをしていた光景を見ました。飲み代を払う払わないが原因だったのか、母がそんなことを言っていたと思います。外から聞こえる母の声に気づき、いつものようにお店の2階にひとりでいた私は、窓を少しあけて、大人たちに気づかれないよう、そっと覗いてその様子を見ていました。「お母さんが大変なことになってる…」その光景が、ただただ怖くて怖くて。でも気づかれないように静かに、泣いていました
「お母さんが可哀そう」水商売をする母の仕事の大変さを子供ながらに感じた出来事でした。
またある時、こんな出来事もありました。いつものように母の仕事が終わってお店から自宅へ帰る途中、その夜母はイライラしていました。夜中に起きて外を歩くのは、子供の私にはつらかったのですが、その日は「怒らせてはいけない」そう感じ取って母の後ろを黙って歩いていました。何があったのかわかりませんが、突然、若い男女4人組のうちの一人の男性と母が口論に。気性の激しい母が激高し始めたのです。女の人はその場から離れていきました。目の前の突然の出来事に私はものすごくドキドキして、母の後ろで体を固くして棒のように突っ立っていました泣くこともできません。母の口調の激しさに応戦する男の人。もう一人の連れの男性が母に謝り、相手の男性をなだめ、その場を割って入ってくれました。たぶん、子供の私がそばにいたからでしょう。今でもきっとそうだと、ありがたく思います。相手の男性を連れ去ってくれて、私はほっとしたのですから。

お母さんのご機嫌を損ねてはいけない
私は将来のアダルトチルドレン予備軍!?

小学校の1年生の頃には、母親がいつもイライラしている様子や「いいよ」と優しく言ってくれたと思ったら舌の乾かぬうちに次には「ダメ!」と言う、気持ちの変わりの早さに気がついていました。
子供の私にすれば「うれしい」のあとすぐに「がっかり」がやって来る感じです。子供心に「やるせない」気持ちでいっぱいになりました。でもお母さんのご機嫌を損ねてはいけないお母さんは大変なんだ。自分の気持ちは言えません。

親の顔色や機嫌を見ながら、子供なのに親のメンタル面など気持ちのお世話をするような、子供が親代わりをせざる負えなかった親子逆転の環境で育つとその子供は将来、アダルトチルドレンの気質で悩む方が多いようです。場を和ませようと自分がわざわざふざけたことをしたりする。親子逆転で子供が親のメンタルのお世話をしているなど、外側からは見えずらい。一見、ごく普通の家庭環境では、ネグレクトや虐待があった家庭よりも分かりづらいため、自分がアダルトチルドレンだと自覚をするのに、ずいぶん大人になってから気づくのです。

お母さんのお母さんは毒親!? 世代間で連鎖!?
愚痴を聞かされカウンセラーのような役目の子供

母はいつもいつも不平不満を口にしていました。そしてかなりの饒舌家です。ずっとひとり会話でしゃべる。独り言の話のテーマは、自分の親兄弟、別れた夫への恨みつらみ仕事の不満。そして早く死にたい。よく自分の母親の愚痴を言っていました。私の祖母にあたるその人は、宗教活動をしていて家のことは放任だったとか。長女に生まれたことで家のこと、兄弟の面倒、母親から押し付けられていたと言います。そして母親が若くして亡くなり、将来を絶望し自殺未遂を図ったことがあると。そんな恨み節の話を延々とひとりでしゃべっているうちにだんだん「怒り」がヒートアップして、ヒステリックになるのです。怒り出すと怒りがおさまらない怒りが沸騰すると気が狂ったかのようにわめき散らす。怒り出したその顔つきは鬼の形相で、ちょっと落ち着いてきたかなと思うとまたヒートアップ!急に怒鳴り散らすのです。
ヒステリックな状態のときの罵詈雑言。ここに書くことをためらうような汚い言葉を叫ぶように言い放つ。それは昼でも夜中でも朝まで続く。自分が疲れて寝るまで続くのです。家の中では毎度のことでした。
怒りの感情は、何かしらのきっかけで爆発すると公共の場所でも抑えられない人でした。
母のような大人を他に見たことがありません。小学生の私は、お母さんの話をただただ黙ってじっと聞いて、そばにいることしかできませんでした。どうか怒りがおさまりますように…。そして別れた夫、私の父の話をし始めると、私は緊張感でいっぱいになります。なぜなら怒りの矛先が私に…。

子供は絶対的に自分の味方にしたい VS あの男に似た子供は憎たらしい 母親の複雑な心理 
「私はどうしたらいいの?」ただただ黙って話を聞いている  

父の話をし始めると母は、父のことを「あの男」と表現していました。あんなことやこんなことがあったと恨みつらみ。親兄弟の話から今度は、別れた夫の話です。おそらくそれは自分の不安から「こんなヤツ」と子供に話を聞かせることで私を味方につけ、父を嫌ってほしい気持ちを持っていたのだと思います。でも残念ながら母の意に反して、私は父のことを悪く思うことはなく、父が好きでした。父に怒られたことがなく一緒に居ると安心した思い出があったからです。父の話がエスカレートしていくと母の睨む目が、私に向けられることもありました。
私は父親に似ていて顔つきから手足の形、先まで「あの男」によく似ていることが癇にさわるらしく「憎たらしくなる」と言うのです。そんなこと言われても、子供の私はどうしたらいいのかわかりません。母の睨む形相が怖くて、緊張が高まりドキドキするだけです。無表情でただただ黙ってお母さんの話を聞いていました

世界一、こわいお母さん
「私が死ぬときはあんたも一緒だからね!」どんなに叩かれても声をあげずぐっとガマンする子 泣かない子

私は何をやらかしてそんなに母を怒らせたんだろう。私が「怒り」のきっかけで母が烈火のごとく怒り出すこともありました。
自分の手を使うと痛くなるという理由でほうきの枝やスリッパを使って叩く。「頭は大事だから下をねらう」母の持論でした。怒りのアップダウンを繰り返し自分が疲れるまで一晩中続きます。私は部屋の隅っこに座っていて寝かせてもらえない翌日は学校へ行かせてもらえない。学校へ行くのが好きだった私の一番の楽しみを奪うのだという理由で。怒りの矛先が変わり「私」から「いつもの話のテーマ」をしゃべり出すと私は少しほっとして居眠りをする。すると「眠るな!」と怒りの矛先がまた「私」に向き緊張が走ります。本人が疲弊し眠ったことを確認したあと私も眠る。ぐっすり眠って機嫌が戻ると「ごめんね。でもあんたが悪いんだからね。」と猫なで声で言うのです。
どんなに叩かれても声をあげずぐっとガマンする子泣かない子。その態度がなおさら気に障ると言われさらに怒り出す。「早く死にたい」とよく口にしていた母は「私が死ぬときはあんたも一緒だからね!」が口グセでした。「本当に殺されるんじゃないか」包丁を持ち出されたこともあり、恐怖で泣いて詫びました。
うちのお母さんは、怒ると世界一こわい人でした。

豪快にゲラゲラと笑う陽気なスナックのママ
お母さんが楽しそうだと私は安心する

母は、色白で小柄でややポッチャリの着物がよく似合う美人さんでした。母が経営していたスナックは10人ほどが座れるカウンター席と小さなテーブルを挟んでボックス2席を置いただけの小さなお店でした。
お店の開店前は、私もお手伝いをします。お店の掃除をしたり、近所のお総菜屋さんに「今夜のおつまみ」を買い行ったり、中華屋さんに夜ごはんの出前を頼みに行ったり。お手伝いがひととおり終わると「もういいよ」と母に言われて、お店の2階の部屋へ上がります。お店が賑わっている日は、大きな声で話す大人の声やボリュームをあげたカラオケの音が、建物いっぱいに広がっていました。
きっと、お客さんには人気者のスナックのママさんだったんだろうと思います。豪快にゲラゲラと笑う母の声が聞こえると「お母さん楽しそうだな」私は安心して過ごすことができました。

養育者であり生きていくためには親を頼らざる負えない子供は、お母さんやお父さんが元気ないとかいつも不機嫌だと、不安や緊張や怖さを感じ、その感情は無意識の深いところに溜まっていきます。

近寄れないほど怖い人」と「穏やかで優しい人」の2面性
周期的に気分に波があり別人へ変身する

「自分はとっても神経質な性格だ」母がよく言ってました。イライラから怒りへとヒステリックになる自分を自覚はしていたようです。曲がったことが嫌いでスパっと竹を割ったような性格。気の強さは天下一品。せっかちでお節介。普段は人あたりのいいひと。母の一面は、そんな人。
それは周期があるのか、気分の波があります。その波は激しい。イライラから怒りが沸点に達している時は尋常ではなく誰も近寄れない怖い人になるけど、超絶気分がいい時はニコニコ顔で穏やか。猫なで声で話かけてくれます。まるで別人に変身するのです。小学生の私は「穏やか」の波が長く続くといいなと思っていたけれど、長くは続かない。また荒波がやって来る。ある日突然、巨大な波が来ることも…。お店へ出かける前の支度の時間帯は、特に注意が必要でした。「髪型のセットが好みにきまらない」「着物の着付けがうまくできない」イライラし始める。だんだんヒステリックな形相へエスカレートしていく。物にあたる。投げつけた鏡台用の椅子が壁にあたって穴をつくったこともありました。そんな日は、仕事はお休みです。そして「いつもの話のテーマ」をこんこんと独りしゃべり始めるのです。

母親の顔色をうかがう子
大人になっても本当のことを言いづらい

不安が強く超がつくほどの心配性。のちに10代へと私が成長していく過程の中でその気質にも私は参りました。「遊んでくるね」友達と遊びたくても、なかなか言いだせない子でした。「ダメ!うちにいなさい」母の気分でジャッジされるからです。イラついているときは、もうあきらめです。子供を思ってというより、心配性の気質が私をいつもそばに置いておきたかったのでしょう。私が外で楽しい時間を過ごしてウキウキで家へ帰るといつものようにイライラと怒りが爆発寸前の母がいて「あんたは楽しかったのか!いい気になるな」と言われ、怒りのとばっちりが飛んでくることもありました。私のウキウキの気分は急速に萎み、黙って母の話を聞くことになります。今ではだいぶ緩和されたけど、おかげで大人になってもサラッと言っておけばよいことでもなかなか言いだせません。なぜ自分は、ぎりぎりまで言いだせないのか。特に自分にとって楽しみなことは「自分だけ楽しむようで申し訳ない後ろめたい気持ちがあって、言いづらい。人から否定されるわけではないのに次に返ってくる言葉を聞くのが苦手です。

悲しいとか楽しかったことも含め、自分の気持ちを言いだせるような状況ではない環境で親の顔色をうかがい育つと、他人の顔色を気にして先回りして他人に気を使いすぎたり、自分の感情や感覚がわからなくなっていく傾向の人がアダルトチルドレンに多いのです。

「お父さんがいない子」「スナック〇〇〇の子」
小学生の私には強烈なレッテル

学校へ行くのは楽しかったです。朝から母がイライラとひとり会話している日は学校で友達と楽しく過ごしていても心のどこかで母のことを気にしていて、下校の時間になると「どうか機嫌が直っていますように」とドキドキしながら帰宅していましたみんなのお家とはちがう。私が子供の頃、クラスの友達の中で、母子家庭のうちの子はめずらしかったと思います。うしろめたさ、恥ずかしさ、心のどこかに感じていて…。お店が休みの日曜日の夕方は近くの焼肉屋さんで、母とふたり食事をして自宅へ帰ります。2重生活のため日曜日に私はランドセルをしょっていました。夕方の焼肉屋さんは家族連れが多く、お母さんと二人で食事している子供はいなくて「お父さんいないの?」「なんでランドセル持ってるの?」とまわりの子供に思われているんじゃないかと思い、母とふたりは居心地が悪く恥ずかしかったです。小学生までは、父のいない寂しさを心のどこかに抱えていました。
そのうえ「近寄れないほど怖い人」になる母の姿を学校の友達にだけは、絶対に絶対に誰にも知られたくありません!!死んでも知られたくないことでした。
自宅のごく近くに同級生の子の家がなかったことは幸いでした。母のお店近辺の商店の家の子は、親御さんから何か聞いていたかもしれません。「スナック〇〇〇」の気性が激しいママとその子供。大人たちは井戸端会議のネタにしていたでしょうから。

10代

被害妄想~隣人とトラブル 警察署へ母を迎えに行く
近所の人の好奇の目が気になります

私が中学1年のとき、母が隣の家人とトラブルを起こしました。密接した住宅地。「隣の家の奥さんがうちに向かって窓をピシャっと力強く閉めた」そんな理由だったと思います。私が学校へ行っているあいだの出来事で、学校から帰って家にいると母から電話が来て今、警察にいると。髪が乱れているから櫛を持って来てくれと。私は管轄の警察署へ緊張感いっぱいの気持ちで母を迎えに行きました。その後、隣人は引っ越しました。
次の隣人ともトラブルを起こします。うちに無言のいたずら電話が数回かかってきたときのこと。電話口の向こうで女性の「クスクスって笑う声が聞こえた」ただそれだけで、無言電話の犯人は隣の家のご夫婦だと疑い決めつけて、隣の家へ怒鳴りこんだのです。その日は日曜日で隣の家の旦那さんはすぐ近くの幼稚園に通うお子さんの運動会から、慌てて帰宅。当然トラブルに。溜息しかでません。とんでもない言いがかりです。それでも私は母のすることに口出しできず、黙ってただただじっとしていました。母親の理不尽さに「すみません」と心の中で謝ることしかできませんでした。

近所の人の好奇の目がとても気になりました。一晩中、家の中で母親がヒステリックに独り言をごちているとその声は外に丸聞こえのため、家から外へ出るときは緊張感でいっぱいの気持ちでした。「近所の人と顔を合わせたくない」朝、静かに玄関をあけて外の様子をうかがいつつ、その場から逃げるように家を出て、学校へ行くのです。

誰も相手にしない 誰も近づかない 助けてくれる人なだめてくれる人はいない 私に声をかけてくれる人もいない

仕事が夜の時間帯のため、昼夜逆転の母は夜中に怒りモードでひとり会話をし、気分を発散していることが多かったのですが、近所の人からの通報だったのでしょう。ある日、パトカーがうちに来ました。事件性はないとわかると、お巡りさんは帰っていきましたが、母は「110番したのは誰だ」と家の外で怒鳴りました。まったく近所づきあいがなく遮断していたわけではありません。母が「穏やかで優しい人」で機嫌がいいときは、近所の方と笑顔で挨拶をかわし、二言三言会話をしていました。どこそこの家の家族構成はどうのこうのとか、母はよく知っているのです。
でも…。きっかけは何だろう。時々家の外へ出て、近所のお宅に向けて怒りモード全開で罵詈雑言を言い放つことをしていた母。近所のお宅の方は、怖かっただろうと想像できます。
誰も相手にしない。誰も近づかない。助けてくれる人なだめてくれる人はいない。私に声をかけてくれる人もいません。

聞こえるはずのない声が聞こえる~幻聴

「私は霊感が強い」子供の頃からたびたび聞かされていました。夜、お店の伝票整理をしていると自分の母親が笑顔で来てくれて自分の後ろにいてくれたとか。ちっとも怖くはないんだよと。母がそう言うのだから、そうなんだと思っていました。いつの頃からだったか、不眠がきっかけだったのか、本人自ら神経科の病院へ行き薬を飲んでいました。気分を安定させるための薬だと言っていました。睡眠薬も入っていたのでしょう。決まった容量とおり薬を飲むと起きれなくなり寝過ごすからという理由で薬を飲んだり飲まなかったり、自分で調整していました。やがて飲みきれないまま残った薬が放置され、通院も途絶えていました。

私が高校一年のときのある日、疎遠になっていた神経科の先生のところへ本人が駆け込みます。「わらをもすがる思いで」と言っていました。悪い霊が来て自分に向かって罵詈雑言を言う声が聞こえるのだと言います。自分に対して罵る言葉を投げつけてくるというその声が、相当な恐怖だったようです。
医者から入院を勧められたけど「入院は絶対にできない」と断ったと言います。
母はその神経科の先生を気に入っていました。
「私がどういう状態なのか知っておきなさい」と言われ、ある日病院へ付き添ったのですが、七福神の大黒様のような笑顔の先生は、高校生の私に「母について」何も話しませんでした。挨拶をしてたわいのない会話をかわしただけでした。

目には見えないがはっきりと罵詈雑言を言う声が聞こえるという
何者かとひとり戦う母の姿

これまで普通に社会生活を送りながら子育てもしてきた母。「わらをもすがる思いで」頼ったはずの先生から処方された薬は結局飲んでいたり、いなかったり。母親の幻聴は相変わらずで「いつもの話のテーマ」の不平不満の独り言の他に、目には見えないがはっきりと声が聞こえてくるというその何者かに対してひとり戦うように怒りをぶつけ、興奮が高まると金切り声でヒステリックに怒鳴り散らしていました。ある日の朝、罵詈雑言を言うその声に対して、包丁を空中に向けて戦う母の姿がありました。今思えば、明らかに異常なことですが、それでも「そういう人」としか捉えていなかった私は、興奮する母に何も言えず、これまでもそうだったように狭い家の中でただただ黙って母の話を聞いて過ごしているだけでした。口出しすることはとてもできません。興奮が収まることをただ願うだけでした。たぶん、透明のバリアを張って自分を守っていたんだと思います。

20代

母親がバッグに包丁を忍ばせて私の職場にやって来た!
感情が凍り付く 表情は消え何も考えられない

20歳で短大卒業後、婦人服を販売する接客業の仕事に就いていた私の職場にある日、母親が突然怒鳴りこんできました。「この子はわたしをなめている」私を見つけるなり、髪の毛をわしづかみにしてバッグに忍ばせていた包丁を出し、私に向けてちらつかせました。突然のことに近くにいた同僚が驚き、店長と副店長の男性がすぐに来て母をなだめて事務所へ。店内にお客さんがいなかったことは幸いでした。その後母は、興奮が収まったところでひとり帰宅。「今日の仕事はもういいから」と言われ私は仕事を早退。店長と副店長に付き添われて自宅へ帰りました。
究極の出来事に遭遇すると感情は「無」になる。この時の私の究極は「恥ずかしい」。子供の頃、学校の友達には絶対に知られたくなかった母の一面を職場の方たちの前でさらけ出し、知れ渡ってしまったのです。なんと表現すればいいでしょうか…「恥ずかしい」がポ~ンとその先へ一瞬で飛んで感情は凍り付き、顔から表情は消え何も考えられない。「無」です。その日の夜、凍った感情が少しづつ溶けて、涙があとからやって来ました。
「負けない」私は小さくそう思いました。何に対して?母に対してではありません。起こった出来事に対しての人の好奇の目です。逃げ出したくなる思いに「負けてはいけない」と思ったのです。そして次の日、出勤。「会社としては困ります」店長にそう言われました。ごもっともです。私は、ご迷惑をおかけしてしまった方々へお詫びしました。

「よくもまあ会社へ行けるよな~」「どういう神経してるの?」私に対して母はそう言い放ちました。「すべての出来事を消しゴムで消しとってしまいたい」私は、無理をしたのでしょう。母親との過去の出来事のなかで、もっとも大きなトラウマとなりました。

絶対、結婚なんかさせない!子供が離れていく
自分の不安感が壁となり受け入れられない親のエゴ

23才で結婚。私は家を出ました。「絶対に結婚なんかさせない」私の結婚に母は猛反発でした。
「自分の思考がすべての正義だ」という極端な考えの人だったので気に入らなければ、絶対に気に入らないのです。受け入れてもらうには、本人のご機嫌をとり良い気分になってもらうおだてのテクニックが必要です。そもそもその前に、ずっとそばにいて無意識に自分の感情のはけ口にして、自分が支配していたはずの子供が自分から離れていくことが不安だったのでしょう。

子供の頃ひとりで過ごしているとき、私の知らない若い頃の母や私の幼い頃の白黒写真を見ることが好きでときどき写真を引っ張りだしては、眺めていました。1冊のベビーアルバムと箱に入った写真。眉毛を八の字にした悲しそうな顔の白黒写真も箱に入っていました。ある日母が「無性に頭にくる」と言って、ベビーアルバムから写真をむしり取り、ものすごい力でアルバムをも引きちぎって、箱に入った私の写真も全部ビリビリに破ってゴミ箱へ!私の幼い頃の写真が…。瞬間、あきらめの境地しかなく怒りもわきません。私は無表情で母がすることを黙って見ていました。あとからビリビリに破られた写真の破片をゴミ箱から拾い集め、何枚かは補修して救ってはみたけれど。ベビーアルバムには赤ちゃんの私を抱っこしている父の写真もありました。
もう残っていません。

「子供は私の分身だ」「煮て食おうと焼いて食おうと私の自由だ」
どんなに理不尽でも子供はお母さんが好き

自分が育った家族のことや人生の不満をさんざん聞かされ、水商売を営む母の大変さを見て感じて育った私は「お母さんが可哀そうだ」とただただそう思い、20代になっても母を思うと涙していました。

どんなに理不尽なことがあっても、それが「私にとって唯一の母親」。無意識のうちに我慢して、透明のバリアを張って自分を守り、母の異常な気質や状態は人に知られたくなくて誰にも言えず。でも本当は、誰かに手を差し伸べてほしかった矛盾を抱え、育ちました。学生時代は、友達の前ではおどけたりして、外では明るく振る舞っていたため天真爛漫って思われたり。でもそれは本当の意味での天真爛漫さとは違う。仮面をかぶっているようなものだから、気疲れで心がどんよりしたり。自分の気持ちに鈍く自己主張のない他人に流されやすい子に成長していました。

母の穏やかなとき、優しいときの一面が私を包んでくれたことは、救いだった。一番、結婚式に来てほしい人。私は願っていたが、母は最後まで頑なに拒み出席してはくれませんでした。それでも、これまで母を嫌ったことはないです。私が二人の子の親となり子育てをするようになるまでは…。

30代

母の自殺未遂~精神科病棟へ入院 統合失調症という精神疾患を知る

母は60歳で店をたたみ、仕事をやめました。「私は誰とも気が合わない」と言い放っていた母に友達はいません。仕事をやめたことで人とのかかわりが極端に少なくなりました。好きな俳優の映画のビデオを見ることと近所のお気に入りの喫茶店へ行くだけ。仕事をやめてしばらくは解放感で晴れ晴れとしていたようでしたが、だんだんと様子がかわり、これまでのような活気がなくなりはじめていきました。
そして私が32歳のとき母が自殺未遂を起こしました。自ら救急車を呼び病院へ運ばれ、精神科病棟へ入院。母にとって2回目の自殺未遂でした。よっぽど追い詰められてのことだったと思います。知らせを受け、当時、主人の仕事都合で地方に住んでいた私は、学校がある上の子を主人と近所のママ友にお願いし、幼稚園の下の子を連れて急ぎ東京へ戻りました。このとき母が「統合失調症」という病気であることを入院先の担当医から聞かされました。

親戚の何気ない言葉が心にズキズキ突き刺さる
わたしが悪いの?「責められている」感情を抱く

精神が安定するようにと薬を処方してもらっていたことはわかっていたけれど、頭痛薬や胃薬を飲むのと同じ感覚で捉えていて「私は霊感が強い」と言う母の話は鵜吞みにしていたし、母のもとで生まれ育ち、ずっと一緒にいた母親が病気を患っていると考えたことはありませんでした。そういう気質、そういう人柄なんだとしか、思っていませんでした。まだインターネットが一般に普及されていない時代です。病気については本の家庭医学書に書いてある記述と医者の話から知りました。私は、担当医に子供の頃から見てきたこれまでの母の様子について話をしました。はじめて他人に打ち明けたのです。その場には唯一、親戚付き合いがあった母より15才年下の私の叔母が同席していました。叔母は、家の中を綺麗に整頓してから未遂を起こしたひとり暮らしの母の不憫さを口にし、私があとどれくらい東京に滞在できるのかを気にかけていました。主人がいるとはいえ、上の子を家において来ているのです。一旦は、家に戻らなくては。長居はできません。叔母にもわかるはずです。泣きながら担当医へ話す私の想いに対しては、叔母に無視されたように感じました。叔母の何気ない言葉の節々に私は、勝手に「責められている」感情を抱きました。
母がこうなったのは、私が悪いのかと。
退院してからの未遂後の母は、何もなかったかのようにいつもの生活に戻っていました。ただ、今後ひとり暮らしの母をどうするか。介護の問題が迫っていました。

母との同居生活が始まる
母よりも同居する子供たちへの影響を一番心配していた私

35歳のとき、理解ある主人と共に家族4人で東京へもどり母と同居生活をはじめました。
この頃の母は幻聴に対して時折、突然大声を出して文句を言ってましたが、慣れなのか本人の中で折り合いをつけていたようです。以前のように怒りを爆発させてわめくことはしません。今にして思えば、私が小学生の頃から、病気の急性期だったのだろうと思います。そして同居を始めた頃は病気の陰性期だったのだろうと。かつての神経科の先生はすでに引退しており、主治医は精神科医の息子さん先生でした。定期的に母を連れて先生が勤務する病院へ通院。本人に病識はありません。ですが通院をいやがることはなく、私が管理していた薬も服薬します。母は、テレビを見ているか寝ている時間が多くなり、感情表現が乏しくなっていました。母よりも同居する子供たちへの影響を一番心配していた私にとって、それは幸いなことだったのですが…。親の介護という壁が私の目の前にドンと立っていました。

懐疑心が強く疑り深い こだわりが強い
母の介護 日常的な家庭でのストレスと日々向きあう

もしかして認知症の初期症状?前頭葉の萎縮は多少あったようですが、認知症ではないと主治医の先生は言います。〇〇のせいじゃないのか。〇〇が怪しい。懐疑心が強く疑り深い。物を盗られたとか悪口を言っているとかの妄想です。母に暴力を振るうような力がないことは幸いでした。
物事に対してこだわりはじめた時のしつこさには参りました。思い込みにかられると、説明しても聞く耳を持ってくれません。そして同じことを何度も言ってきます。もともとの神経質な気質や病気からくる精神的な要因でしょう。自らをコントロールする思考や理性は、母にありません。当時、私にはヘルパーさんを依頼するという考えはありませんでした。母の性格からして、他人が家に出入りすることは無理だと思い込んでいたのです。母に向きあえるキーパーソンは自分しかいないんだ。他人を頼ることも苦手でした。私はイライラが募りました。とにかくなだめすかしたり、聞き流したり、母に対して「うるさいよ!」怒鳴ったこともありました。怒鳴ったところで好転するわけではないのに。そんな自分に後から後悔が襲います。そして母はある時ピタッと何も言わなくなる。忘れるようです。かと思えば、断片的に昔のことをよく覚えていて、冷静に話すのでびっくりしつつそんな時は「そうだったんだね」と共感したり。自分の感情のふり幅をまるで試されているかのような日々でした。

トラブルの壁はさけては通れない
何か試練がやってくると大きな不安に襲われる 

母の体を動かす動作はゆっくりで、歩くときの様子もだんだん変わっていきました。
薬の副作用のため前のめりになりタッタッタと本人の意思に反して、早歩きになるんです。
その歩き方のせいで、家の近くで転んで腕を脱臼、捻挫したことがありました。整形外科への通院の始まりです。ひとりで出かけた先で転び、救急車で運ばれたこともありました。歩くときは、支えないと危ない。また薬の副作用は手指にも。こわばりがあってうまく動かせなくなりました。ひとつ問題が起これば、問題に向きあって対処していくしかない。こつこつ対処していくことで自分の中の不安を和らげていったと思います。すっかり意欲が低下して着替えやお風呂など身の回りのお世話だけでなく介助を必要とした母のこと、当時小学生だった二人の子供のこと、私にとって日常的な家庭でのストレスがもっとも大きかった頃です。毎日、家の中で母と向きあうストレスを軽減するひとつの方法として、とりあえず外へ出て仕事をすること、自分のための時間を選択しました。当時の私は30代後半で長い人生の中ではまだまだ若く、自分の将来のためにも、家計のためにも外へ出て仕事をすることが理にかなっていると考えていました。
母と同居を始めて1年半たった頃、近所のスーパーで午前中だけパートの仕事を始め、やがて派遣社員でサポート業務の仕事に就くようになりました。

母はひきこもりがちで病気については「いろいろ(薬物治療)試してきたけどあまりにも病歴が長くお手上げです」のちに主治医の元へ通院をやめた少し前だと思います。先生からはそう言われました。

40代

母のような病気の人は施設へ入所はできない
本当にそうなの?

どこから聞いた情報なのか。母と同居する以前、叔母が言っていました。「そうなんだ…」 叔母の言うとおりなのだろう。同居する以前、私はそう思っていました。
同居後、母は要介護「2」の介護認定を受けていました。ある日思い立った私は、誰にも相談せず役所へ行き、入所できるかどうかはわからなくても、だめもとで区の施設への申し込みだけはしていたのです。そんなことをすっかり忘れていたある年、役所から連絡がきて区の特別養護老人ホームへの入所が決まりました。申し込みをしてから5年後のことでした。
「ホームに受け入れてもらえない」そんなことはなかったのです。ひと悶着あるかと思いましたが、意外にも母はすんなり入所してくれました。介護に対する考え方の違いでしょう。入所後に報告した叔母からは小言を言われました。でもよいのです。私は、ほっとしましたから。

80才の誕生日を目前に亡くなった母
ある日突然の出来事

ホームでの母は、幸いに暴力を振ることはなかったようですが、ときどき大きな声で怒鳴ったり、薬の拒否をしたり、職員の方からの話を聞くたびに、私は心の内でヒヤヒヤし申し訳なく思っていました。規則正しい生活環境と健康管理に定期的な娯楽。いつも人がそばにいる環境なわけで、物理的に離れたことで何より安堵したはずでしたが、いつも母のことが頭の中にあり、気になっていました。病院へ通院させたり入院したこともあったけど、ホームで穏やかに暮らしていたと思います。
月日がたち、母がホームで暮らして8年目のお花見の季節、車いすの母を連れて近くの公園へ散歩に行ったときのことです。いつも険しい表情をしていたため、眉間に刻まれていた深いしわが、いつの間にか消えていて、やけに肌つやがよい母の顔に気が付きました。「顔にしわがぜんぜんないよね~」 写真撮ろう!思わず撮った写真が、母の最後の写真となりました。それから半年後、80才の誕生日を目前にして突然亡くなりました。老人性心臓病でした。

家庭内トラウマの克服

自分の育ってきた環境を振り返って自分自身を理解する

それは子育てがきっかけでした。
専業主婦だった20代の終わり、2人の子供の子育てに追われていた頃、子育てを通じてふと母親との自分の過去を振り返ることが多くなりました。母にちゃんと育ててもらい成人したことへの「感謝」の気持ちを持つ自分がいる。でもその半面「それって別に親としてあたりまえのことをしてもらっただけなんじゃないの?」と思う自分がいる。とにかく母の子供の叱り方は、尋常じゃなかった。疑問を持つようになりました。4歳か5歳の頃、左手の人差し指の第2関節を曲げた指の右脇にお灸をすえられたことがあり、それは子供を叱るではなく、脅して恐怖感を与える行為であり、自分の感情の赴くままに与える体罰や暴言。その行為について母親本人へ自分の気持ちをぶつけたことがありました。「私が何をした」と怒り出す始末。聞く耳をもたず、話にならない。失敗でした。本人へ気持ちをぶつけても意味がないことを悟りました。血縁関係のある親であっても自分からすれば「他者」です。「他者」に直接訴えたところで、仮にそれで抱えていた傷が癒えたと感じても本当の意味で心の傷は癒えません。

病気だったら何してもいいの?冗談じゃない

母が62才で自殺未遂を起こして入院先の担当医から病名を知らされたとき、担当医や看護士の方に母のこれまでの様子や自分の思いを語りました。私ははじめて他人へ家庭内の話をしました。
母の希望で通院していた病院の主治医に私がつい、自分の気持ちを吐露したら「家族のこと言われても・・患者さんを治療をすることが僕の仕事です」と言われました。
そうですね。おっしゃるとおりです。
「病気だったんだからしかたないじゃない」叔母の言葉です。叔母は「神経質な母の性格」は、わかっていました。でも時々遊びにきて「ママの機嫌を悪くしないようにね」と言って帰っていく叔母は、母の本当を見ていないし知らない。「病気だったら何してもいいの?冗談じゃない」
当時の私にはとうてい受け入れることができない言葉でした。

どうせ他人にはわからない 否定的な言葉に囚われ卑屈に思う

子供の頃から心のどこかで抱いていた「誰かに助けてほしい」「誰かに私の気持ちをわかってもらいたい」という思いが、母の状態を医者に話したことをきっかけに「慰めを求めて」それを他人に期待する思いが私の心のどこかにあったのだと思います。話ができる相手を選び、話をしてみても気持ちは晴れませんでした。母が未遂を起こし入院したとき、なぜか連絡先を知っていた叔母が父を呼び寄せ、病院で十数年ぶりに父と再会しました。父は再会した私との和やかな会話の中で、一度も面識のない息子さん二人の話をしていました。「この人はなぜ息子さんの話ばかりをするのだろう…」「私は?私もあなたの娘じゃないの?」そう感じていました。子供の頃の思い、私は一番に父に助けてほしかったのだと思います。残念です。私の思いは、わがままなの?他人からの言葉にはむしろ否定されて傷がえぐられる思いでした。心にさまよう静かな怒りを抱え悲嘆を感じ「どうせ…」と否定的な言葉に囚われていました。心を貝のように閉じる。そこには卑屈な思いの自分がいました。

気づきが「過去の置き去りにした自分の感情を解決する」チャンスに繋がる

人は自分が体験していないことを完全に理解することはできません。
見方を変えてみるとあたりまえのことに「気づき」ました。
その気づきは「過去の置き去りにした自分の感情を解決する」チャンスに繋がりました。
他人へ意識を向けるのではなく、自分の内面に目を向け自分を客観視するように…。
子供の頃の出来事。母の言動。それは映画のワンシーンを見るかのような過去の切り抜きの映像。
蘇るその映像を客観的に俯瞰して見ている今の自分。あのとき感じたこと、思ったこと。
じっと耐えていたんだね。声を出せなかったね。怖かったよね。淋しかったね。悲しい思いをたくさんしたね。ほんと可哀そうな子だったね…。あのときの自分を想い涙しました。映像を一つ一つ紐解く。映像の中で、感情にフタをしたままの過去の自分を想い、自分で自分を慰めていました。そのたびに私は泣きました。そして過去の自分の気持ちに寄り添いなぞっていくうちに時に母に対して無性に「怒り」の感情をおぼえました。

「いい娘さんですね~」
母を警察署へ迎えに行ったときの刑事さん、高校生のとき母に言われて付き添った神経科の先生。
私を「いい子」と言ってくれた大人。母は人に「私の育て方がよかったからだ」と豪語する。そんな母の言動に緊張が走る。「穴があったら入りたい」私はただそれだけの気持ち。母の言動には何も言わずに黙っている。でももし私がいい子だったのなら、お母さんの育て方がよかったからだって?? ちがう。「私自身が偉かったのだ」

毒親のもとで育った子は毒親になる?世代間連鎖を断ち切る

家庭内トラウマ(心的外傷)があったり機能不全家族の中で育ったり、親がいわゆる毒親であったり。いつかは介護の問題にも直面するかもしれません。

20代の終わりから時間をかけて子供の頃からのトラウマに触れ、悲しみ、怒り、母の介護をつうじて感情を試行錯誤させながら母を理解し、受け入れられるようになりました。
想像以上に母は苦しかったにちがいありません。
「成長の機会を与えてくれた」
その過程で私は「自分のものさし」自分軸が成長したんだと思います。
母が亡くなって数年後、心理療法を学び3歳の子のワークや心の重荷を下すスクリーンの書き換えワークを知りました。まさに「目から鱗」こういうことだったんだな…。
ひとり向きあっていたことと合点がいったのです。自己流でしたので私は遠回りをしてしまいました。
日常の心の悩みをひとりで抱え込まないことは大事です。
「誰にも言えない」
カウンセリングは、あなたの心の悩みに寄り添います。そしてカウンセラーと共に心の仕組みを知ることであなたの未来が変わる近道となります。ひとりでは時間も長くかかることでしょう。

「自分だけが悩んでいるのではなかった」
「思いを受け止めてもらえた」

小さな一歩を踏み出したとき、あなたの心にホッとする気持ちが芽生えてきませんか?
クライアントの方が「悩み」の迷路から抜け出し安定した心で自分自身の道を歩く。サポートできるよう手を差し伸べたい。カウンセラーとしての私の想いです。

望遠鏡から覗く未来はきっと実りの多い人生を送っている。

親子関係、母子家庭、父子家庭、ご家族の問題や悩み、精神疾患や介護を必要とする方をケアしているご家族の大きなストレスや悩み、アダルトチルドレン、愛着障害の悩みを抱えて今の人生に生きずらさを感じている方。 今このとき「心が泣いている人」。
私の体験がカウンセリングをつうじて「悩み」や「生きずらさ」を背負っているあなたのお役に立てたら、幸いです。